パフェとサンデーの違いについて

パフェとサンデー。何が違うか考えたことはあるだろうか。
私はなかった。
そもそもそれらが似ているものだと認識してなかった。

先日友人とあるファミリーレストランに行った時、
デザートで何を食べようか吟味していた。

イチゴやバナナ、チョコがトッピングされた華やかなパフェの写真がいくつか並ぶ中、
その横にさらっと「サンデー」も掲載されていたのである。

その時、私は突然思った。
「パフェ」と「サンデー」は一体何が違うのか……?どう見てもコンセプトは一緒だ。

このファミリーレストランのメニューに掲載されている写真では
パフェは細長い器に入っている傾向にあり、サンデーは丸っこい背の低い器に
入っているような気がする。


サンデーといえば、どうもコーヒーゼリーが入っていることが
多い気がするので、コーヒーがあまり得意でない私は
そもそも選択肢として考えることがなかった。

そのため、サンデーは「コーヒーゼリーとクリームがメインのパフェっぽいもの」
みたいなイメージで数十年間暮らしてきたのである。

で、いざ調べてみたところ。
なんと両者はほぼ同じものであって明確な違いがない、ということ!

なんやて工藤!!?

じゃあ、一体なんでそんなことになっているのかというと。
パフェはアイスやら果物やらたっぷり乗せた、華やかで贅沢な品。
アメリカでは、キリスト教の安息日である日曜日に、そんな派手なものを
食べるなんてけしからん!ということになったらしい。

それで、日曜日にパフェが売れないぞ!と困ったお菓子屋さんが考案したのがサンデー!
日曜日に、安息日にも食べていい、質素なパフェ!!
なんと、ただのパフェ屋さんの生存戦略だったのである!!

ちょっとデコレーションを控えめにして、
名前を変えて日曜日にも売れるようにしたパフェ。

世の中のマーケティングって昔からこうやってるんだなあと噛み締めながら
友人が食べるサンデーを見ながら私はパフェを食べた日曜日であった。

もっと犬を抱っこしてやればよかったなという話

飼っていた犬が死んだ。
といっても少し前の話だ。今でも一緒にいた時間を思い出したり、
同じ犬種の写真を見たりしては、うちのもこんな風に可愛かったなあ、
もこもこしていたなあ、などということを思い出して懐かしんでいる。

私が中学生くらいの時から実家で飼っていた犬で、
私は今はもういい大人なのでひとりで暮らしている。
実家を離れている間に亡くなってしまった。長寿だったので、大往生だった。

年に何度か帰る度に、だんだん目が見えなくなったり、ボケたり、
後ろ脚に力が入らなくてうまく歩けなくなったりと、老化が進んで目に見えた。
だからいつも、次はもしかしたらもう会えないかもしれないな、これが最後かもという不安とともに帰省していた。

実家で飼っている犬だったし、親がメインで世話をしていた。
離れて暮らすようになってからもう数年立っていたから、犬にとっては
すでに私は家族の一員ではなかっただろうし、私も抱っこをするのが
はじめから苦手だったのであんまり、抱っことかしてやれなかった。

くっついて寝てきた時は一緒に寝たり、むっちゃ撫でてやったり、
犬だってマッサージされたら気持ちいいだろうと思って肩を探して揉んでやったり
そんなことはよくやってたけど。


犬が死んだその日、昼に心臓が止まったと母親から連絡があって、
その日の夜急いで実家に帰った。
幸い、次の日が休みだったから、夜は家でゆっくりすることができた。

犬の好きだったクッションに横たえてやって、
本当に寝てるみたいだったのに、触ったらいつもみたいにあったかくなくて、
冷たくて、固くてちょっと驚いたのを覚えている。
でも本当に表情や体勢は、いつも寝ている時となんら変わりなかったんだ。

母親が、家にいる間や、火葬場に行くときも、ずっと犬を抱っこしていたんだけど
私は犬が生きていた時ほとんどあんな風に抱っこしてやらなかったなあ、って
そればっかりを今でも後悔している。

将来、いつか自分でも猫や犬を飼いたいなと思いながら
今日もネットでかわいいペットたちの写真を見てストレスを癒すだけの日々だけど、
もしその日がきて、次にうちにくることになった子は
いっぱい抱っこしたり、お話したいなと思う。

プレゼントの選び方

14日はバレンタインでしたね。
本命とやらも特にいない私ですが、お菓子屋の陰謀にのっかり、バレンタインの数日前に百貨店へ行き、チョコレートを見繕いに行きました。

同じ部署の男性陣へのありがとうチョコ、、普段仲良くしている友達2人への友チョコ、先日お世話になった男子へのお礼チョコなど、私が買ったのはその辺のものです。

プレゼントを選ぶのはとても楽しい。
決して高いチョコレートを買ったわけではないけれど、対象の相手を思い浮かべて、
「この味が好きそう」「こういうデザインは女の子なら喜んでくれる」「がっつり量あったほうが喜びそうだな」と、人によって買うものを変えた。

バレンタインの時期の百貨店にはいつにも増しておびただしい数の甘いものが用意されているのだけど、ラッピングがそもそも男性向けだったり、女性向けだったり、チョコだったりバームクーヘンだったりマカロンだったり様々な選択肢がある。

どれを選んでもだいたい美味しいだろうし、間違いないとは思うのだけど、人によってあの人にはこれ、この人はこっち、とやっている自分にふと気づいて、自分の中のその人のイメージに合わせて一生懸命選んだりするんだなあと思ったりした。

なんだか、プレゼントを買う時には当たり前のことではあるのかもしれないけど、こうして誰かが喜んでくれたらいいな、と思ってたくさんの選択肢の中からその人のためのひとつを選ぶのはとても贅沢で、楽しい行為だなと思った。

誕生日やいろんな記念日もあるけど、バレンタインはわりと普段なにか贈らない層に向けても物を選ぶ機会になりやすい。

その時に、私にとって大事な人はこの人で、この人にはこんなイメージを持ってて、なんて、人間関係の見直しみたいで、楽しいなあと、ふと百貨店で思ったのでした。

そして誰かのための数多のスイーツを抱え、腹ペコになった自分のために551の豚まんを買っていこうとしたら、時間も遅かったので売り切れになってしまっていて、肩を落としたのでした。

老人の面倒を誰が見るのか

最近、一族の親兄弟が集まって頻繁に話し合いをしているらしい。

議題は、病気であまり動けない高齢の祖母(彼らからしたら彼らのお母さん)の面倒を誰が見るのか、ということ。
 
結論からいうと、誰も面倒を見たがる人がいない。
みんな、老人ホームに入って欲しい、そう思っているみたい。
おばあちゃんはそれが嫌で誰か親族に面倒を見てもらいたいと思っている。
 
おばあちゃんは、いま、田舎で一人暮らしだ。
とても長生きしているけど、広い家にずっとひとりで暮らしていて、さみしいんじゃないかなあ。
 
頑固で偏屈で性格が悪い、なんてことではないから、みんな、
そういうおばあちゃんの人間性みたいなことが理由で、面倒をみたくないのではないとは思う。
 
おばあちゃんの昔話から推測するに、時代もあったのだろうけど、
若かった頃のおばあちゃんは一族の男どもの面倒を全て見て、家事はひとりでやり、
女だから宴会の準備なども、全部彼女の仕事だったようだ。
彼女の産んだ子供もみんな男ばかりだった。
 
おじいちゃんはもう随分前に亡くなっているが、
その前に寝たきりになっていたので、その介護もおばあちゃんがつきっきりでしていた。
 
とにかく、おばあちゃんは若い時からずっとひとりでがんばっており、
今まで誰かの面倒を見るばかりだったのである。
 
なのに、いざ自分の番が来た時に、誰も手を差し伸べてくれない。
 
 
私は、私にとっての優しいおばあちゃんしか知らないので、
息子たちやその嫁にしかわからない世話をしたくない理由もあるのかもしれない。
 
でもなあ。
もしこれ、おばあちゃんの立場が自分だったら。
めちゃくちゃ寂しいし、悲しいだろうなあと思う。

 
こんなことを書いておきながら、私もおばあちゃんとはもう長いこと
まともに会っていないので、その気持ちは推測するぐらいしかできない。
 
私の親たちは自分の母親に寄り添わないことにしたようだけど、
自分たちのときは、どうするつもりなのかなあ。
いずれ私も老い、私の両親も呆けたり、介護が必要になるときがほぼ確実にくるだろうと思う。
 
最近やたら親が老後を見越した話をしだしてくるので、
自分たちの老いた親を見て、何か思うところもあるのだろう。
 
人にこうしておいて、自分たちは子供に完全介護してほしい、
とはまさか言い出さないだろうとは思うのだけど。
(まあでも、突然明日大きな病気になって寝たきりになるかもしれないし、なんともいえない)
 
しかし尽くしてきたおばあちゃんは、本当にやりきれないだろうな。
 
 
私は今のところ子供も伴侶もいないので、このままいけば孤独死が待ち構えている予定だ。
そして、だからといって慌てて婚活をしたりといった気概もなく、わりと諦めムードだ。
おそらく同年代でそういった状況になってゆく人は、将来的に少なくもないんじゃないだろうか。
 
 
おばあちゃんはかわいそうだと思う。
なら、お前がいますぐ今している仕事も生活も辞めて、
かわいそうなおばあちゃんの面倒をみてやれよというご意見もごもっともだろうと思う。
 
でもやっぱり私もそこまでではない。
非情だな。
 
 
自分の親が完全介護が必要になったとき、私はどうするんだろうか。
私が老いて介護を必要としたとき、いったいどんなことになるんだろうか。
想像して、さみしくなった。

ほぼ日手帳を使いこなせない

毎年、ほぼ日手帳を使っている。
毎年、「来年はもう使わない」と思いながら使い続けている。

ほぼ日手帳のサイトはいつも良く出来ていて、
「こうやって使うと、楽しい!」という、使い方事例をたくさん紹介している。

みんなのつかいかたコレクション - ほぼ日手帳2014



ほぼ日手帳には1日1ページの割り当てがあるので、
使えるスペースが多い。

「その日のお弁当をカラーで毎日イラストを書いています」
「着ていった服を書いておけば次同じ人に会うときにかぶらなくて便利!」
「スペースが広いからマンガやイラストもたくさん描ける!」

といったような、手帳ライフを満喫するためのアイディアが満載だ。
たっぷり載っている手帳の使い方事例の写真も、
どれもカラフルで、字が綺麗で、写真を切り取って貼って、おしゃれなメンディングテープでデコレートして…
わくわくする。さながら工作のようだ。
今年のほぼ日手帳のプロモーションビデオも、かつての「図工」の授業を思い出した。

これを、毎日やるとなると膨大な時間がかかる。
その日に食べた食事のメニューをイラストでカラフルに!というのも
一見簡単そうだけど、毎日やろうと思うと普通の人ならほぼ無理だ。

夏休みの宿題の絵日記を、きちんと毎日続けられた人なんてそうそういないのでは?
ほぼ日手帳が「これさえあればあなたの毎日は素敵になる!」
と声高に主張するのはあれのもっとすごい版だ。



ほぼ日手帳を紹介するサイトで見られる使い方事例は、
どれもキラキラしていてスゴくてかっこいい。
私もこんな風に手帳が使えたら、毎日が充実するかも!と幻想を抱かせる仕掛けがすごい。
(実際には逆で、充実してるから手帳の中身も充実するのだろうけど)


私の手帳を見返すと、
付属のボールペンで乱雑に走り書きした、仕事のメモ。
時々趣味のイラストが入るけれどあんなにカラフルに、丁寧に書いていたりしない。
いつか貼ろうと思っている旅行先のチケットが乱雑に挟まっている。
5月から9月ぐらいまでがすっぽり空いていて、全く何も書かれていない。

私の手帳は、楽しくない。
あんなにきれいじゃないし、すてきじゃないし、人に見せられるようなものを
毎日頑張って書き続けることができない。
私の毎日が楽しくないものだから手帳が充実しないのかもしれない。
そんな風に思ってしまう。

毎年、ほぼ日手帳はこんなにスゴくて楽しい!というプロモーションを見て
自分の手帳との落差を感じる。
「使いこなせない」という意見もネットでわりとよく見る。

あそこに載っているクォリティで、「毎日」続けている人は
多分きっとそうそういないだろう。(ゼロだとは思わないけど)
投稿用に、たまたま気分が乗って作った一番気合の入ったページを送ったり、
プロモーション用にそういったページを見開きで作ったり。

きっとそういうことなんだろうとは思うのだけど、
こういう風に使えない自分はダメなのかも、という気分にもなる。

ほぼ日手帳のプロモーションサイトを見る度に、
ハードルをちょっと上げすぎなんじゃないのかなーと思ったりする。
これだけ使えないと、ほぼ日手帳を使ったことにはならないのか、って思う。

なんだろう、リア充の充実した毎日♪とでもいうのだろうか、
実際には現実はしんどいこととかだるいこととかもあるんだけど
そういったものは一切合切脱臭して、
一番「理想」とされるところだけを切り取って紹介して、
それが当たり前であるかのように紹介している感じ。

Facebookに載せられがちな写真や話題のような。
例えがアレだけど伝わるかな。
なんかそういうもののにおいを、あれらのプロモーションから感じている。

ほぼ日手帳は楽しいこともできる。毎日をすてきにもできる。
でももうちょっと、肩の力を抜いたプロモーションをしてもいいんじゃないかな。


でも、来年の手帳もほぼ日手帳だよ。
私の手帳の中身はあんなふうにきれいじゃないし、字も汚いし、楽しい物じゃないけど。

たくさん書けて、何を書いても良くて、
なんといってもカバーもかわいいからね。


何回見てもこんなの毎日できるか…?って思う。

10年に1度の台風の中ご苦労様です

10~20年に1度とか言う規模の台風が来てるらしい。
この前きた台風もすごい規模で、京都の嵐山の方にものすごい被害を与えていったけどあれよりスゴイんだろうか。

ところで、そんな台風が接近してる中で、東京の仕事熱心な人たちは
会社の近くにホテルを確保するなどして、明日どんな雨や風や嵐が来たとしても、いつもと何も変わらずスムーズに出社できるよう、腐心しているらしい。
今日、電話がなりまくっててもう都心のホテルがいっぱいなんだって。

台風に備え 都内ホテル満室に - NHK 首都圏 NEWS WEB  
http://www.nhk.or.jp/shutoken-news/20131015/5273961.html

正直アホかとしか思えない。
台風は自分の努力でどうにかできるもんじゃないし、電車が動かないような事態だったらもう休みでいいじゃない。
何週間も休むわけじゃないんだし、たまの一日くらい、
「ああ今日はあっちは台風なんだな。仕方ないな。」
なんてことがあってもいいと思うんだよね。

そうやってホテルをとってまでしてる人たちの一体何割が、
たったその1日行かなかっただけでヤバくなって、代わりの利かない仕事なんだろう??
多分、その人が突然今すぐやめたってどうにでもなるくらい、どうでもいい仕事の人だって少なくないと思うんだよね。

ホテル取ってまでいつもどおり出社しようとする人たちは、
自分たちはそれでいいけど、ゆめゆめ、仕事より命が大事という
まともな感性の人たちに同じように仕事や会社を命より大事にするようなことを
強制しないようにしていただきたいなあと思う次第。


こういう日に外に出られないからってピザの配達注文が増えると思うんだけど、
ピザのデリバリーとかも「お休みです」でいいと思うんだ。
大雨強風の中、レインコート被ってグッショグショになりながら
ピザ持ってくる人のことを考えたらほんと不憫で仕方ない。

命より大事な仕事って、一体なんなんだろうな~。

冷蔵庫に入るバイト、しまむらに土下座させる女性

夏の間に世間を賑わした、アイスのケースに入ったり

お店の冷蔵庫に入ったりした人たちの話、すっかり聞かなくなったな。

 

普段どんな無体をされてもあまり感情を表さずに怒ったりしない

日本人を怒らせたいなら食べ物に細工すればいいっていうのは

よく言われることだけど、夏の間、みんながこぞって彼らを叩いたのは

冷蔵庫だったり、ピザの生地で遊んだり、食べる所で裸になったり、

だったからなんだろうな。

(まー原因としては諸説あるでしょうけど1つの原因として)

 

夏は暑いから誰でもほんとは冷蔵庫に入りたくなっちゃう、

(でも普通の人はやらない)っていう話も

見たことあるけどそれが結構好き。w

 

夏休みも終わってすっかりこういった話を聞かなくなった。

多分今でもいくらでもあるにはあるんだろうけど、必死になって

探す人たちがあんまり探さなくなったとか、夏が終わったから

こういうのやっちゃう子供たちもあんまり暇じゃなくなったのかも。

 

と思ったら、しまむらで土下座させた人が、強要罪とかいって

逮捕されてるじゃないですか。

しまむら店員「土下座」事件、女性を強要罪で逮捕

http://www.j-cast.com/2013/10/07185576.html

 

DQNとか、こう、我を通して周りに迷惑かけて、自分が楽しければ、良ければ、

自分だけ気持ちよければなんでもいい、って人たちっていうのは一定数いて。

ある程度善良的に生きている人たちにとっては、そんな人たちの振る舞いに

腹が立ったり、イライラしたりっていうのはしてるんだろうなー。

 

そのDQNは知り合いでもなんでもない事が多いし、

万一仕事場や学校の知り合いだったとしても、

関わりあいにならないほうが正解だから、

大体の場合その人達をどうすることもできない。

 

最近は、「こういった人たち」にもインターネットがようやく浸透して、

ツイッターで「こういった人たち」がしっぽを出してくれやすくなったから、

みんなで徒党を組んで、攻撃がしやすくなった。

匿名で、名前もばれないところで。

 

今まで、自分の正義に則って悪の限りを尽くしていた奴らに、

簡単に制裁を下しやすくなった。

私もこういったのは見ていて胸がスッとするほうだけど

(端的に言えば「ざまあwwww」と思っちゃう)

なんというか、怖いなあ、とも思う。

 

私もあまり要領のいいほうじゃなくて、生真面目にやるほうなので、

人に迷惑を掛けたりズルした人がずっと楽や得ばかり

している社会は納得がいかないけどね。